縁にみちびかれて 二上山眞光院のブログ
眞光院の日々を綴って

こんばんは
副住職です。
五月もあっとゆう間に、
半分過ぎましたね。
眞光院ではいつもと変わらず、
時が流れております。


もちろん、
だからと言って今日まで、
暇な訳じゃございません。

熊本まで
友人のお手伝いに行き、

G.Wにはお寺で会議があり、

最後は近所の雷山観音さまでの
お手伝いでした。
ありがたい事です。
明日は奈良に行きます。
本当にありがたい事です。
ちなみに、

先日祈願札の案内板が完成しましたので、ぜひ見に来てください。
副住職です。
五月もあっとゆう間に、
半分過ぎましたね。
眞光院ではいつもと変わらず、
時が流れております。


もちろん、
だからと言って今日まで、
暇な訳じゃございません。

熊本まで
友人のお手伝いに行き、

G.Wにはお寺で会議があり、

最後は近所の雷山観音さまでの
お手伝いでした。
ありがたい事です。
明日は奈良に行きます。
本当にありがたい事です。
ちなみに、

先日祈願札の案内板が完成しましたので、ぜひ見に来てください。
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こんにちは
副住職です。
四月はバタバタ忙しくブログ書きそびれてました。
申し訳ありません。
さっそくですがお綱さんに関するご質問がありましたので、
法要の模様をお伝えする前に、お綱さんとはどのような神様なのか
少しお話いたします。
お綱大明神としてお祀りしております神様は
お綱さんという実在の女性です。
そして「お綱門」というお綱さんが登場する、
福博の伝説があります。
原典は「筥崎釜破古」という古書とされています。
時は江戸、福岡二代目藩主黒田忠之公の時代です。
「お綱門」
黒田二代目藩主忠之は、参勤交代の帰路、大阪で一人の芸妓を見初め釆女という肩書きで博多へ連れて帰りました。しかし、家老に釆女を側室にする事に反対され、お綱さんの夫であります家臣の浅野四郎左衛門にあずけることになりました。
四郎左衛門は釆女の美しさに溺れてしまい、お綱と子どもたちを下屋敷に追いやり、その生活を楽しみました。
お綱も最初は殿様の命令だからと我慢しておりましたが、日がたつにつれ夫の心が自分から離れていることに気づき、暮らしの為の金銭も届かなくなったのでした。
明日は雛祭り。
幼い娘の祝いの準備もできません。
四郎左衛門の住む本宅に使いを送り、お金の無心を申し出ましたが
「すでに絶縁」とけんもほろろでした。
奥方を哀れに思い、主に失望した使用人の善作は遺書をしたため、首をくくり死んでしまいました。
ことの次第を知ったお綱は逆上し二人の子どもを手にかけました。
そして子どもたちの首を布に包み、腰にさげ、薙刀を手に下屋敷を飛び出しました。
夫がいる本宅に着くと、四郎左衛門は城へ出かけていました。
留守をあずかっていた、明石彦五郎はただ事ではない様相を感じ、お綱に切りつけました。
お綱は重傷を負いましたが、
「恨みの一太刀を」と彦五郎から逃れると、薙刀を杖に城の裏門へと向かい、場内に入りました。
しかし命からがら扇坂下の門まで辿り着いたところで力尽き、扉に手を当てたまま息絶えたのでした。
寛永七(1630)年三月三日のことでした。
以来、お綱が手をあてて息絶えた門を「お綱門」と呼ぶようになったそうです。
「福岡県の昔ばなし」~西日本新聞社編~
そしてお綱門に関する様々な怪談、たたりの話しがあります。
太平洋戦争の時、福岡城址は兵営となりましたが、
お綱門で立番をする兵隊は心身の異常をきたし、この門の近くの小石を嫌な上官の枕元に隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり、病気になったそうです。
近年老朽化したお綱門は丁重に供養され、長宮院というお寺でお祀りされました。
しかし長宮院は空襲で焼失してしまいました。
幸い位牌は疎開させていたので、その後当山でお綱大明神としてお祀りするようになったのです。
そして糸島に移転する際、町内の方々の要望もあり、
ご一緒に移ってまいりました。
お綱大明神へは家庭円満、良縁成就、また水子供養など、
ご祈願される方があり、お綱さんの子どもを慈しむ心を今に伝えております。
また、不思議な事に長宮院は焼失してしまいましたが、
現在家庭裁判所として家庭の悩みを解決する場所となっているのです。
以上がお綱さんに関するお話です。
前回ブログに掲載した写真は、
福岡城址の扇坂。
つまりお綱門があったとされる場所でした。


近くの看板にお綱さんの話が書いてあります。

法要当日は天気も良く、
しっかりとお勤めさせて頂きました。

お綱さん親子は雛祭りの日、桃の節句に、亡くなられましたので桃の花やひしもちなどをお供えしました。

昔も今も、男女の仲は難しいものです。
もし悩んだ時はお綱さんにお願いしてみましょう。
きっとお力添えくださります。
お綱さんは長い年月をかけて、
良縁成就の神様になられたのです。

福岡城址の橋にて
副住職です。
四月はバタバタ忙しくブログ書きそびれてました。
申し訳ありません。
さっそくですがお綱さんに関するご質問がありましたので、
法要の模様をお伝えする前に、お綱さんとはどのような神様なのか
少しお話いたします。
お綱大明神としてお祀りしております神様は
お綱さんという実在の女性です。
そして「お綱門」というお綱さんが登場する、
福博の伝説があります。
原典は「筥崎釜破古」という古書とされています。
時は江戸、福岡二代目藩主黒田忠之公の時代です。
「お綱門」
黒田二代目藩主忠之は、参勤交代の帰路、大阪で一人の芸妓を見初め釆女という肩書きで博多へ連れて帰りました。しかし、家老に釆女を側室にする事に反対され、お綱さんの夫であります家臣の浅野四郎左衛門にあずけることになりました。
四郎左衛門は釆女の美しさに溺れてしまい、お綱と子どもたちを下屋敷に追いやり、その生活を楽しみました。
お綱も最初は殿様の命令だからと我慢しておりましたが、日がたつにつれ夫の心が自分から離れていることに気づき、暮らしの為の金銭も届かなくなったのでした。
明日は雛祭り。
幼い娘の祝いの準備もできません。
四郎左衛門の住む本宅に使いを送り、お金の無心を申し出ましたが
「すでに絶縁」とけんもほろろでした。
奥方を哀れに思い、主に失望した使用人の善作は遺書をしたため、首をくくり死んでしまいました。
ことの次第を知ったお綱は逆上し二人の子どもを手にかけました。
そして子どもたちの首を布に包み、腰にさげ、薙刀を手に下屋敷を飛び出しました。
夫がいる本宅に着くと、四郎左衛門は城へ出かけていました。
留守をあずかっていた、明石彦五郎はただ事ではない様相を感じ、お綱に切りつけました。
お綱は重傷を負いましたが、
「恨みの一太刀を」と彦五郎から逃れると、薙刀を杖に城の裏門へと向かい、場内に入りました。
しかし命からがら扇坂下の門まで辿り着いたところで力尽き、扉に手を当てたまま息絶えたのでした。
寛永七(1630)年三月三日のことでした。
以来、お綱が手をあてて息絶えた門を「お綱門」と呼ぶようになったそうです。
「福岡県の昔ばなし」~西日本新聞社編~
そしてお綱門に関する様々な怪談、たたりの話しがあります。
太平洋戦争の時、福岡城址は兵営となりましたが、
お綱門で立番をする兵隊は心身の異常をきたし、この門の近くの小石を嫌な上官の枕元に隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり、病気になったそうです。
近年老朽化したお綱門は丁重に供養され、長宮院というお寺でお祀りされました。
しかし長宮院は空襲で焼失してしまいました。
幸い位牌は疎開させていたので、その後当山でお綱大明神としてお祀りするようになったのです。
そして糸島に移転する際、町内の方々の要望もあり、
ご一緒に移ってまいりました。
お綱大明神へは家庭円満、良縁成就、また水子供養など、
ご祈願される方があり、お綱さんの子どもを慈しむ心を今に伝えております。
また、不思議な事に長宮院は焼失してしまいましたが、
現在家庭裁判所として家庭の悩みを解決する場所となっているのです。
以上がお綱さんに関するお話です。
前回ブログに掲載した写真は、
福岡城址の扇坂。
つまりお綱門があったとされる場所でした。


近くの看板にお綱さんの話が書いてあります。

法要当日は天気も良く、
しっかりとお勤めさせて頂きました。

お綱さん親子は雛祭りの日、桃の節句に、亡くなられましたので桃の花やひしもちなどをお供えしました。

昔も今も、男女の仲は難しいものです。
もし悩んだ時はお綱さんにお願いしてみましょう。
きっとお力添えくださります。
お綱さんは長い年月をかけて、
良縁成就の神様になられたのです。

福岡城址の橋にて
明日当山では、
お綱大明神供養法会がございます。
家内円満、良縁成就を願います。

これはお綱さんに、大変ご縁があるといわれる場所の写真です。
福岡市民なら
わかる人ならわかるはず!
答えは法要後に発表致します。
それでは明日皆様のご参拝をお待ちしております。
お綱大明神供養法会がございます。
家内円満、良縁成就を願います。

これはお綱さんに、大変ご縁があるといわれる場所の写真です。
福岡市民なら
わかる人ならわかるはず!
答えは法要後に発表致します。
それでは明日皆様のご参拝をお待ちしております。
こんばんは
副住職です。
春のお彼岸も無事に終わりました。
彼岸中は雨もぱらぱら降って、
どこかぐずついていました。

彼岸のお中日には、
納骨堂でのご供養のあと、
皆さんでお念珠繰りをお勤めしました。


今年は彼岸が過ぎても、
寒い日が続いております。
今年は下の神社の桜の木も、
もう花を咲かせました。

日本人は自然の移り変わりにとても敏感だそうです。
先人は四季を愛でてきました。
もちろん私もお彼岸のあと、
お花見に行きました。
彼岸のしあわせも、
此岸のしあわせも、
案外すぐそばかもしれません。
「それ仏法はるかにあらず、
心中にしてすなわち近し」
お大師様のおことばです。
追伸
お彼岸の中日のお接待の写真。

ごちそう様でした。
副住職です。
春のお彼岸も無事に終わりました。
彼岸中は雨もぱらぱら降って、
どこかぐずついていました。

彼岸のお中日には、
納骨堂でのご供養のあと、
皆さんでお念珠繰りをお勤めしました。


今年は彼岸が過ぎても、
寒い日が続いております。
今年は下の神社の桜の木も、
もう花を咲かせました。

日本人は自然の移り変わりにとても敏感だそうです。
先人は四季を愛でてきました。
もちろん私もお彼岸のあと、
お花見に行きました。
彼岸のしあわせも、
此岸のしあわせも、
案外すぐそばかもしれません。
「それ仏法はるかにあらず、
心中にしてすなわち近し」
お大師様のおことばです。
追伸
お彼岸の中日のお接待の写真。

ごちそう様でした。
こんばんは
副住職です。
今日から一週間春のお彼岸です。
ご先祖さまに感謝し、
今この時を過ごすよろこびに
気づきましょう。
ちなみに当山では、お綱大明神さまのご縁で、四月までひな飾りしております。

今年まだご覧になられていない方は、
是非ご参拝下さいませ。
追記
私ごとですが、先日真言宗のなかの、西院流という法流の一流伝授が愛媛のお寺さまでスタートしました。

まだまだ浅学非才の私でございますが、精進させて頂いております。
今後ともなが~い目でお見守り下さいませ。
副住職です。
今日から一週間春のお彼岸です。
ご先祖さまに感謝し、
今この時を過ごすよろこびに
気づきましょう。
ちなみに当山では、お綱大明神さまのご縁で、四月までひな飾りしております。

今年まだご覧になられていない方は、
是非ご参拝下さいませ。
追記
私ごとですが、先日真言宗のなかの、西院流という法流の一流伝授が愛媛のお寺さまでスタートしました。

まだまだ浅学非才の私でございますが、精進させて頂いております。
今後ともなが~い目でお見守り下さいませ。